2018年 メモ一覧

2018年 12月
2018年 1231日  冬来たりなば春遠からじ
2018年12月23日  山茶花・実蔓・屁糞蔓
201812月6日(木)  ここは天国度が高いぞ

2018年 8月
2018年8月29日(火)  再び「勝利と敗北」に思いを馳せる

2018年 5月
5月29日(火)  雨間に大谷、ココ、ブーニン
28日(月)  ごまかしは駄目

2018年 3月
331日(土) ブラームスはお好き?
319日(月) 春・桜・鶯 そして テニス
31日(木)  春の嵐

2018年  2月

2018年 1月
1月22日(月)  アリさん ありがとう
月7日(日)  遅ればせながら新年ご挨拶を


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   2018年 1231日 冬来たりなば春遠からじ 

 2018最後の日。このところ急に冬らしく寒くなってきた。23日に書いた「山茶花」は、寒さのせいか、さすがに元気がない。冬の花だが、寒さには強くないらしい。  さて、童謡「たき火」の追加メモだが、この歌も、戦時下では「貴重な燃料を、何たることか!」と睨まれたらしい。その後も、今度は消防の方から、「風の強い時に、たき火とは何事だ!」とお叱りを受け、挿絵にバケツを置くことで、何とかしのいだという。 世知辛いことだが、町内会の小さなナショナリズムから、国家のナショナリズム、真面目な人ほど、これに持っていかれる。 ナショナリズムにもグローバリズムにも一長一短がある。行き過ぎると、とんでもないことになる。丁寧に見極め、折り合いをつけて、近所や近隣諸国と仲良くやれないものか・・・とつくづく思う。  年の瀬になり、急に寒さが厳しくなった。「冬来たりなば春遠からじ」 日本には素晴らしい四季がある。ここ細江でもそれは身近に感じられる。
 日本の四季のありがたさに改めて感謝したいと思うが、この言葉も、日本発祥ではなく、イギリスの詩人シェリーという人の「西風の賦」という、かなり長い詩の最後の一節にあるものらしい。 

  西風よ、私の唇を通して、また醒めやらぬ全世界に対する、
  予言の喇叭を響かせてくれ! おお、西風よ、
  冬来たりなば春遠からじ、と私は今こそ叫ぶ!
  

 四季は日本独特のものだと自慢はすまい。 今年も残り少ない。皆さんに感謝しながら、なるべく元気に新しい年を迎えようと思う。 

  華やかさはないが、それはそれで、なかなか風情のあるものだ。  山肌に遠慮がちに咲くファイナルの山桜はほぼ満開に近い。
 すでに散り始めた木もあり、先日、風の強い日には桜吹雪がコート上を舞った。
 
 ウグイスもさえずり始めている。一昨日、近くで鳴く声がするので、木を見つめていると、6羽は確認できた。ウグイスは小さくそれほど鮮やかではないので、なかなか見つけにくい鳥だけど、しっかり姿を見せてくれたので、嬉しかった。

 
 さて、久しぶりにテニスのことでも・・・ 
 昨日、優勝が決まった大阪さんのことを飛ばすわけにはいかないね。「ナオミ」はすっかり世界の人気者になった。この大会での強さは、抜群! メジャーでチャンピオンになるのは、そう遠くないな、と皆が思ったことだろう。また、楽しみが増えた。

 
 舞台は小さくなるが、ここ宮崎でもシーズン到来だ。大人も子供も大会が目白押し。(この目白も鳥のメジロで、こちらの方が姿は鮮やかだ。シーズンになると、メジロが枝に並んでとまり、押し合い圧し合いしている様子から、「目白押し」と云ったらしい。)

 
 テニスのスコアはゲームカウントだけではなかなか想像できない。 例えば、6-0というと、ほとんどポイントの取れない、一方的な試合を想像してしまうが、それは可哀想というものだ。
 たとえば、ノーアドの試合で、すべてノーアドのゲームを落としたとすると、ポイントは43なので、スコアとしては6-47-5でもおかしくないポイント差である。
 無論、大事なポイントをすべて失ったとしたら、それはそれで問題ではあるが、その差はわずかだ、ということである。

 先日、たまたま車中で聞いたラジオが、スポーツデータの講座をやっていて、興味深い話があった。
 スポーツ競技全体で見ても、最も番狂わせの少ない種目がテニスだという。甲乙のストローク力の差が6040だとすると、甲が勝つ確率は実に98%だという。
 それが5545だとしても、94%の確率で甲が勝つという。このことは、先ほどのスコアの取り方が大いに関係している。 この少しの差を埋めるのは大変なことではあるが、敗者としては、救われるデータでもある。
 たとえ6-0でも、その差はわずかで、挽回できる数字だと考えればいい。(今ではABを使うね、あえて古い甲乙を使ってみた。役所や裁判で使うのは全て甲乙だよね) 

 さて、ジュニアで多く見られるが、自分のプレーに腹が立つのだろうか、ラケットを投げたり叩きつける場面をよく目にする。プロがやるので、真似することもあるのだろうが、「みっともないからやめとけ」ということにしている。
 叩いたラケットは傷つく。何より武士の刀みたいなものだ。高価なものだからもったいないし、何よりもみっともない。

 競技としてのテニスはボクシングみたいなものだ。一種の格闘技である。打たれたボクサーがうなだれたりグローブをリングやロープに叩き付けたりすれば、相手を勇気づけるだけだ。
 僕らのスポーツとしてのテニスの試合は、いわば会話のようなものだ。そう来たか、それならこう行こうか・・・なんてお互いのやり取りを楽しめばいい。
 会話からボクシングの間の、様々なレベルの試合があるのだと思う。 しかし、されどテニスではあるが、たかがテニスである。どのレベルでも、相手をリスペクトし、プレーを真剣に楽しみたいものだ。
 大阪なおみの活躍は、そういう意味でも大いに楽しみである。大阪さん、OOKINI・・・



 
  2018年12月23日  山茶花・実蔓・屁糞蔓


 12月6日のメモ、少し追加したい。 
 まず、クラブに関しては、此処の地主さんに大変ご厚意を頂いてきたこと。
 特に今年は、照明のLED化に当たり、快く引き受けていただき、いち早く完成させていただいた。 これまでも、クラブの主宰に当たっては、大きな力で支え続けていただいた。
 本当にありがたいことだと思う。
 さらに、好き勝手に放し飼いにしてくれた家族への感謝も一応、メモしておこう。

 今回の
HPの写真には、サザンカ、サネカズラ、ヘクソカズラを何とか写し込んだ。色っぽさに欠ける冬に、彩りを添えてくれる貴重な植物たちだ。
 山茶花には歌謡曲「さざんかの宿」、童謡「たき火」などの歌がある。僕は後者しか知らないが、少し若い人には前者の方が有名で、
かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき・・・」と歌って見せても ほとんど「知らない」という。

 この歌の
2番に「さざんか さざんか咲いた道 たき火だ たき火だ 落葉たき・・・」とサザンカが出てくる。懐かしい歌なのに残念・・・
 ところで「さざんかの宿」の方は「愛しても愛しても ああ 他人(ひと)の妻 赤く咲いても冬の花 咲いてさびしい さざんかの宿」と、これは不倫と云われるものを歌ってますね。 
 
 サネカズラは「名にし負わば 逢坂山のさねかずら ひとに知らねで くるよしもがな」と百人一首にも詠まれている。
 こちらもちょっと不倫の臭いのする詩かも・・・「不倫は文化・・・か?」 
 ヘクソカズラとは、何とも臭い名前で、臭いと云われているが、ここのは臭くない。万葉集にも「クソカズラ」として出てくるらしいが、さらにご丁寧に「へ」までつけて「ヘクソカズラ」とは可哀想すぎる。
 なかなか趣のあるまあるい実が連なり、可愛いものである。

 ここにある「野の花だより 三六五日」という画と文による本の
1227日と28日のところに見開きで「実蔓サネカズラ」と「山茶花サザンカ」が載っており、少し前の1210日のところに、「屁糞蔓ヘクソカズラ」が載っている。
 揃ってファイナルの垣根に生きているとは何かのご縁に違いない。今日も暖かいが年の瀬、残り少ないな~



  201812月6日(木)  ここは天国度が高いぞ 

 前回のメモは何と8月
29日、3か月以上のご無沙汰だ。
 仮に遠くでこのメモを気にかけてくれている人がいたとしたら、「可哀想に、くたばっちまったか・・・」と思ってくれたかもしれないな・・・
  

 この間に細江ファイナルは16年から17年目への橋を渡ったことになる。細江に来たのは2
0029月だから、丸16年経過し、17年目を歩き始めたわけだ。
 それ以前の錦町ファイナルは
1992年の12月からだから、丸26年が経過する。 よくもまぁ、持ったものだと思う。
 メンバーはすっかり様変わりし、クラブも手を変え品を変えながら(実際は、そこに作為も工夫もなく、自然に様変わりしただけだが・・・)どっこい生き残っちゃった。

 僕はどんどん老いぼれていき、かといって、人手を増やせる経営状況には程遠く、流れのままに身を任せてきた感がある。
 一番の支えは、このクラブを我がクラブとして練習に励んでいただいた会員の方々。 次には拙いコーチを、コーチとして育てていただいている練習会、トライアル参加の方々。
 それに僕を最も悩まし、鍛えてくれているジュニアの皆さんたち。 どれもこれもママならず、中途半端で申し訳ない限りだが、中途半端ということは、まだまだ伸びしろはあるかも・・なんて強がっておこう。
  
 
 左の写真は、
11月のある平日お昼前後に撮ったものだ。 誰一人居なくても、結構楽しめる。
 蒼空の下に樹々が繁り、その前にコートがある。玄関前のベンチに座り、横には少し前には子猫だったココちゃん、普段はよく聞く音楽も絶ち、しばし自然の歌声に耳を澄ませる。
 すぐ横の垣根には、サネカズラの赤いまあるい実、へクソカズラの黄金色の実が実り、山茶花のピンクが彩りを添えている。 かなり天国度は高いな。このまま、この世とオサラバしてもいいかも・・・なんて気もするほどだが、いやまだまだ・・・もうちょっと楽しませてくれ、とも思う。
 周りの人のことを考えると、多少の未練はあるし、もしかしたら困ってくれる人があるかもしれない。少し待ってもらうことにしようかな・・・。
        (多分、必ずつづく・・・)
 


  2018年8月29日 「勝利と敗北」に思いを馳せる


 このメモは529日以来、実に三ヶ月ぶりのメモだ。 思うところは多いが、 一々反応してみても テニスで言えば ミスした時にいろいろ言い訳をする・・・それに似ている気もしてきて止めとくか・・・もっと 淡々と生きていた方がいいのかもしれない なんて思って 静かにしていた次第。

 今後のメモは 身辺の出来事で感じたことなどを中心に、大人しいメモを目指したいと思う。
 この間、サッカーのワールドカップがあり、 梅雨も明け ウィンブルドンも終わった。 そして早や全米オープンテニスが始まっている。
   そのウィンブルドン男子準決勝の ナダル対ジョコビッチの試合は本当に見応えのある熱戦だった。これぞシングルス と思わせる凄い戦いだった。
  そして、身近な大会から世界レベルの大会まで 必ず 勝者と敗者が生まれる。
 「勝利と敗北を等しく遇しなさい」
という言葉は、今でも僕の大切な座右の銘の一つだ。 
 

 僕ら草テニスプレーヤーでも、やはり勝ちたいし、負ければ悔しいしメゲる。
 そんな時、どう対処し、発展的に明日に繋げていくか、特にジュニアには大切な問題だ。

 
 すでに 20102月にメモしたが、改めて思い起こし、この永遠の課題に思いを馳せたいと思う。
 
イギリスの詩人、キップリングの 「if」 という詩の中に「勝利と敗北」についての記述があり、ウィンブルドンのセンター・コートに向かう扉の上に掲げられているそうだ。 

          キップリングの詩が載ったブログ・・・            http://tennis55.exblog.jp/9021185/

 今日のところはこのへんで・・・。


   5月29日(火)  雨間に大谷、ココ、ブーニン

  今日も小雨、梅雨というから、雨間を見つけて、できる時にやるしかない。今日も結構やれた。強い陽射しの中よりもマシかもしれない。

 さて、昨日のつづきで、大谷翔平選手について一言。

 よくMLBを見るが、彼の活躍には目を見張る。大金を蹴って、夢の二刀流に挑む。投げる方も、打つ方も、ついでに走る方もすごい。しかし、目を見張るのはそれだけではない。彼のスポーツマンシップもすごい。
 
 僕はベンチで選手がひまわりの種をそこら中に吐き出したり、あたり構わず唾を吐き散らしているのが、とても嫌だった。彼らスター選手は子供たちのあこがれの的でもある。彼らの仕草一つ一つがカッコよく見えて、真似をする。

  日本の選手は、グランドは神聖な場所だと思っている人が多いので、それほど多くないが、中には勘違いして、やはりベンチでペッペとやっている選手もいる。
 
そんな中で、自分流の正しい道を行うのはなかなか難しいと思う。彼は紙コップの中に種を吐き出していて、それを真似る選手もでてきたという。
   自分がいいと思ったことに真っすぐで、とても好感が持てる。無論、類まれな素質にもよるが、純粋に野球に真っすぐだ。MLBの色に染まらず、そのまま、真っすぐに走ってほしいと思う。

 
 アメフットの問題も、まるで軍隊のようなコップの中で、その雰囲気に染まらず、異を唱えるのは至難の業だったと思う。しかし、スポーツはいろんなことに利用されてしまうので、本当に注意深く付き合う必要がある。
 大きな大会での選手や国民の高揚感、盛り上がるナショナリズムは、極論すれば、戦争などの高揚感と同種のものだと思う。少し距離を置いて、静かに見守る勇気?も必要なのではないだろうか。

 
 話は変わるが、「ココちゃん」が居候を始めてもうすぐ9か月になる。人間でいえば中学生くらいだろうか・・・。すっかり懐いて、気持ちよく居候を決め込んでいるようだ。
  僕にも大きな癒しを与えてくれている。猫らしくなく、お迎えやお見送りまでしてくれる。クラブの皆さんにも好かれているようだ。
去年9月のメモに、「そのうち、もっと気に入った場所と人に恵まれれば、幸せに暮らせるだろう、一時の住処にしてくれるなら、これも何かのご縁というものだろう。」と書いているが、もう、ずっと、此処に居てくれたらいいな・・・と思うようになっている。
 
 僕はココの爺さんではなく、父さんでもなく、まるで母さんみたいかもね・・・。

  ところで、数日前の帰りに、ラジオからヘーゼルの「3匹の猫」が流れてきた。そのあとにも「もう一匹の猫」さらに「もう3匹の猫」と続くブラスアンサンブルによる組曲だ。この人は現存していて、しかも、僕より少し若い。クラシックに猫をテーマにした曲が少ないのは、西欧では猫は悪魔の使い、みたいに宣伝されて、魔女狩りみたいなことをされた歴史があるからに違いない。

 でも、ないわけではない。その中で通称「子猫のワルツ」と呼ばれているショパンのワルツが有名だ。「子犬のワルツ」は有名だが、こちらも聞き覚えのある曲だと思う。
 正式には「華麗なる円舞曲」の一部である。後半は英雄ポロネーズ、若き日のブーニンによる超名演奏、短いので、ぜひどうぞ・・・
http://youtubeclassic.seesaa.net/
   article/27742463.html

もっと暇があれば、猫NORAのピアノ演奏をどうぞ・・・https://www.youtube.com/watch?v=xne6_3h8j74https://www.youtube.com/watch?v=zeoT66v4EHg 



    5月28日(月)  ごまかしは駄目 

 
 朝から雨、女子シングルス月例会の予定だった。僕がクラブに着いた時はかなり激しく降っていた。
 今日は中止だな・・・と思っていたが、1人また一人と現れ、無論、欠席の人もいたが、結局、4人は揃った。しかし、止んでいる時間は少なく、結局、練習会ということに・・・。
 シングルスだけでなく、ダブルスもたくさんやった。

 
 皆さんの上達具合には感心させられる。ご本人たちはご不満のようではあるが、それだけ要求水準が高くなっているということだろう。頼もしいかぎり・・・

 
 さて、たまにメモはしていたが、もう僕の中では、とっくに詰んでいる事だったので、バカバカしくなって消去、もう過去形だ。国内政治状況、アジアの国際情勢、最近では
アメフット。 進行が恐ろしくのろい。時間稼ぎの資料隠し、ごまかし、挙句の遁ずら。 
 要するに、関係する者が一堂に会し、思いを吐露すれば、真実は相対的にではあっても見えてくるはずだ。それが困るから、時間軸をずらしたり、記憶を喪失させたり・・・何でもありでごまかす。


 ところで、「ごまかし」というのは「誤魔化し」と「胡麻かし」と2通りの漢字と、それに応じた語源があるらしいが、いずれも当て字だという。「胡麻の菓子」由来と「護摩行の灰」由来説があるらしい。
 意味としては「本心を見やぶられないように、話をそらしたり、でまかせを言ったりして、その場やうわべをとりつくろう。」ことで、まさに「然り」だ。
 
ついでに「駄目」というのは囲碁用語で、どちらの地にもならない、意味のない目のこと。まさに意味のない時間の浪費だ。駄目を詰めて、終局にして欲しいものだ。

 さて、スポーツ界もスキャンダルが絶えない。テニスも例外ではなく八百長など酷いものだ。大会の構造が選手を無視しているからだろう。
 テニスで特に気になるのは、審判やボールパーソンに対する選手の横柄な振る舞いだ。そこには敬意のかけらもない。 日本のスター選手も、判定が不服だったらしく、「あの審判、辞めた方がいいですよ」だと・・・。 

 イチロウ選手が、走塁でアウトの判定を受けた時、さっとベンチに引き下がった。ベンチはチャレンジを要求し、「セーフ」。
 試合後、「すぐにベンチに引き上げたのはアウトと思ったからか?」との問いに「いや、セーフだと思ったが、引き上げたのは、審判に対するリスペクトですよ」・・・いいね~.
 
 ちょっと大谷選手にも触れたかったが、時間切れ。
 きっと明日、続く・・・。


    331日(土)  ブラームスはお好き? 

 一昨日のことになるが、朝、出がけにマイアミオープン準々決勝のデルポトロとラオニッチの試合を見た。ラオニッチが先行し、
2セット目に入るブレイク時に、チャンネルを回してみると、「らららクラシック」をやっていた。
 そこで、ブラームスの
4番について、初心者向けの解説をしてくれていたので、ついついこちらの方を観てしまった。

 ブラームスは交響曲を4曲しか書いていない。51歳で書いた最後の交響曲、翌年に、自分の指揮で初演をしている。
 その評価は大きく二分され、マーラーからは「古めかしい、空虚な作品」だと酷評され、リヒャルト・シュトラウスからは絶賛さ
れている。

  ブラームスの家は貧しく、楽譜なども買えず、先輩友人のシューマンから、沢山の楽譜を見せてもらい、盛んに写譜して、古典作曲家のベートーベン、モーツアルト、バッハなどを丹念に勉強したという。
 彼の
4番は、これらの吸収したものに、独創的な工夫を加え、名曲に仕立て上げたものだ。

 この古典を基礎にしているところが、古めかしい、とみられているらしいが、至る所に新しい試みがちりばめられているという。この辺の詳しいところは、僕にはさっぱり理解できないが、とにかく、僕はこの曲が大好きだ。
 折につけ、何度も何度も聞かせてもらっている。喜び、哀しみ、激しい感情が抑制のきいた穏やかな音の流れの中に昇華されていて、何とも懐かしい気分にしてくれる、とても癒される曲だ。

  以前、ブラームスについては少しメモした覚えがある。「シューマンは最後には心を病み亡くなるが、その後、妻クララシューマンと深い中になり、生涯支えた」というエピソードをメモしたと思う。
 恐らく心の深いところで繋がっていたのだろうと、何となく微笑ましい気分にすらさせてくれる間柄だ。
 

 話は変るが、ここファイナルは夏場の「蛍の里」から、春の「鶯の里」と景色が一変している。何十羽もの鶯が居て、そこかしこから美しい鳴き声が聞こえる。コート奥の柳の大木も萌黄色の鮮やかな葉を茂らせ、それが朝日に反射して眩いばかりだ。 

 居候歴半年の子猫の「ココちゃん」も、もう子猫とは言えないたくましい青年育っている。最初の「借りてきた猫」状態とは別人の、まことに甘えん坊の「人懐っこい」人気者になっている。

 桜は散り始めたが、まだまだ美しい。椅子に腰かけていると、ココちゃんがピョンと膝に飛び乗ってきて、安心しきった様子でくつろいでいる。
 そこにブラームスの
4番が聞こえ、暖かい空気に包まれる。実をいうと、このところ体の方は、外科的にも内科的にもすこぶる不調で、テニスもままならない感じだ。けれども・・・気分は最高!!
 暇なときにはブラームスをどうぞ・・・https://www.youtube.com/watch?v=LY2BJYBw7TM
こちらはバーンスタインのやや饒舌な解説付きの演奏、https://www.youtube.com/watch?v=RM2ndQGbUBQ
同じく、彼の人となりが窺える解説付きの3番、https://www.youtube.com/watch?v=TLlRlGo4xwg 

*なお、このメモのタイトル「ブラームスはお好き?」というのは、古い方ならご存知だろうが、フランソワース・サガンの小説のタイトルである。
 「ブラームスはお好き?」というのは、男が女を口説くイントロで使われた。「さよならをもう一度」というタイトルで映画化もされている。 イングリッド・バーグマン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンスという名優
3人が演じる、古くて新しい恋物語。

 この女性作家サガンは
18歳で「悲しみよこんにちは」、23歳でこの作品を書いた、早熟の人気作家だった。
 若くして大金を手にし、その生活は破天荒。良くない取り巻きに囲まれて、薬物、ギャンブル、浪費癖などなど、逮捕歴もあり、スキャンダルが尽きなかった。
 この映画では、ブラームスの
3番、3楽章がいろいろな形で使われている。


   319日(月)  春・桜・鶯 そして テニス

 
春本番、桜の便りもあちこちで聞かれるようになった。
  
在来種としては103年ぶりに、桜の新種が見つかったというニュースもあった。もともと見つかってはいたのだが、新種とは気づかれていなかったらしい。
 「クマノザクラ」・・・山桜に少しピンクをかけた愛らしい花ビラ。諸説あるが、だいたい
12種しかなかった在来種が一つ増えたということらしい。
 
 
豪華に咲くソメイヨシノはクローンなので、1本、1本、接ぎ木で増やすしかない。しかし、花が咲く時はまだ葉がなく、全体が花で覆われるので、いかにも艶やかだ。
 山桜は花と葉が一時に開くので、派手さはないが、それはそれで、なかなか風情のあるものだ。
  山肌に遠慮がちに咲くファイナルの山桜はほぼ満開に近い。
 すでに散り始めた木もあり、先日、風の強い日には桜吹雪がコート上を舞った。
  ウグイスもさえずり始めている。一昨日、近くで鳴く声がするので、木を見つめていると、6羽は確認できた。ウグイスは小さくそれほど鮮やかではないので、なかなか見つけにくい鳥だけど、しっかり姿を見せてくれたので、嬉しかった。 

 さて、久しぶりにテニスのことでも・・・
 昨日、優勝が決まった大阪さんのことを飛ばすわけにはいかないね。「ナオミ」はすっかり世界の人気者になった。
 この大会での強さは、抜群! メジャーでチャンピオンになるのは、そう遠くないな、と皆が思ったことだろう。また、楽しみが増えた。
  
 舞台は小さくなるが、ここ宮崎でもシーズン到来だ。大人も子供も大会が目白押し。(この目白も鳥のメジロで、こちらの方が姿は鮮やかだ。シーズンになると、メジロが枝に並んでとまり、押し合い圧し合いしている様子から、「目白押し」と云ったらしい。)

  テニスのスコアはゲームカウントだけではなかなか想像できない。 例えば、6-0というと、ほとんどポイントの取れない、一方的な試合を想像してしまうが、それは可哀想というものだ。
 たとえば、ノーアドの試合で、すべてノーアドのゲームを落としたとすると、ポイントは
43なので、スコアとしては6-47-5でもおかしくないポイント差である。 無論、大事なポイントをすべて失ったとしたら、それはそれで問題ではあるが、その差はわずかだ、ということである。

 先日、たまたま車中で聞いたラジオが、スポーツデータの講座をやっていて、興味深い話があった。スポーツ競技全体で見ても、最も番狂わせの少ない種目がテニスだという。

 甲乙のストローク力の差が
6040だとすると、甲が勝つ確率は実に98%だという。それが5545だとしても、94%の確率で甲が勝つという。
 このことは、先ほどのスコアの取り方が大いに関係している。 この少しの差を埋めるのは大変なことではあるが、敗者としては、救われるデータでもある。
 たとえ
6-0でも、その差はわずかで、挽回できる数字だと考えればいい。(今ではABを使うね、あえて古い甲乙を使ってみた。役所や裁判で使うのは全て甲乙だよね)


 さて、ジュニアで多く見られるが、自分のプレーに腹が立つのだろうか、ラケットを投げたり叩きつける場面をよく目にする。
 プロがやるので、真似することもあるのだろうが、「みっともないからやめとけ」ということにしている。
 叩いたラケットは傷つく。何より武士の刀みたいなものだ。高価なものだからもったいないし、何よりもみっともない。

 競技としてのテニスはボクシングみたいなものだ。一種の格闘技である。打たれたボクサーがうなだれたりグローブをリングやロープに叩き付けたりすれば、相手を勇気づけるだけだ。
 僕らのスポーツとしてのテニスの試合は、いわば会話のようなものだ。そう来たか、それならこう行こうか・・・なんてお互いのやり取りを楽しめばいい。
 会話からボクシングの間の、様々なレベルの試合があるのだと思う。 しかし、されどテニスではあるが、たかがテニスである。どのレベルでも、相手をリスペクトし、プレーを真剣に楽しみたいものだ。
 大阪なおみの活躍は、そういう意味でも大いに楽しみである。大阪さん、OOKINI・・・

     
31日(木)  春の嵐 

 2月はメモゼロだったので、何かメモしておこう。メモしたいことがなかったわけではなく、有りすぎて困るくらいだったが、ちょっとあきらめに近い心境で無言をきめこんだ。僕の願いは、詰まるところ、「戦争だけは御免だ」、それだけだ。

 しかし、思うに、この一万年くらいは、戦いがなかったことはないだろうし、今だに、戦火が絶えない。おそらく、人間が戦争を止めることはないのかもしれない。
 それに、僕らの知り得る情報は微々たるもので、信ぴょう性も疑わしい。僕らの願いは、次の世代に、その次の世代に託すしかないのだろう。
  科学者に、一つ試してみたいことを挙げろ、と云われれば、試していただきたいことがある。AIロボットで、100人くらいのムラを作り、絶対に争いをしないで生活する・・・それが可能か・・・という実験だ。
 それが可能なら、その方法を学べばいい。可能なら人間にも未来があるかもしれない。それが不可能なら、人間は破滅の道をたどるしかないのだろう。・・・なんて夢を見たことにしておこう。

  昨日の帰り道、クラブを出てすぐの路地に小さなカエルが跳び出してきた。徐行して注意深く避けて通ったが、ちょっと嬉しくなった。
 春だ、と思った。
 

 今朝出がけ前、テレビのニュースで、エジプトでは「無神論者を犯罪人にする」という法案が出されるなんて言っていた。恐ろしいことだ。
 間違いなく僕は犯罪者だ。 僕は無神論者ではあるが、この世に人智の計り知れない崇高なものがあり、そのことは疑う余地もなく存在して、それを神と云えば言えるかもしれない、とは思っている。
 逆に無神論者の僕の方は、神を信じている人を犯罪者だなんて、決して思いはしない。信じるに足るものを持っている人は幸せな人だと思う。

  それにしても、ニーチェが「神は死んだ」と言ってから120年以上も経っているのに、まだ、こういうことがあるのかと、驚いている。
 ヒトの心は縛らないで自由にしてほしい。 だいたい宗教上のいざこざは、神の為せる技ではなく、あくまでも宗派に集う人間の為せる技だ。

 かつての哲学者、科学者は、この神のシモベという人たちに、随分苦しめられたようだ。
 自身の宗教的立場と科学的な整合性に、多くの時間を割いている。神の存在証明を懸命にやっている。それ無しでは、己の主張ができないからだ。
  どだい有限な人間が、無限の神の存在を証明できるわけがない。証明できれば、それは神と同等の高みに居るということだからだ。
 もし神が居るとすれば、それは天国のみを作るだろう。少なくとも地獄を作って人間を脅すのは神ではなく人間の仕業だ。
 そのことで何がしかの利益を得たい、いかにも人間のやりそうなことだ。 神のことはこれくらいで・・・
  

 今日は正に春の嵐だ。出勤途中の車のラジオが、「新燃岳噴火」を伝えていた。目指すクラブの方向は煙ってどんよりしていた。強い西風に吹かれて飛んでくる・・・確かに噴煙だ。
 クラブに着くと、想像通り嵐にやられていた。奥のコートではパラソルが
40メートル吹っ飛んでいた。手前のコートでもテーブルごとなぎ倒されていて、無残な姿を晒していた。玄関前もしかり・・・。
 想像以上の強風だった。

  午後も強風は続き、今日の練習会は無理かな・・・なんて思っていたが、なんと7人も来られた。今日平気なら、できない日は滅多にないだろう。
 ジュニアは一人だけ、強風の中、頑張って練習した。きっと実を結ぶだろう。
  その後は嵐に因んで、ベートーベンのテンペストを聞いた。シェイクスピアの「テンペスト」は許しとハッピーエンドで終わる。それでまたふとよぎった。
 カーリングの「そだねジャパン」。そーだね・・・というのは許しではないが、受容である。
 相手のことを「そーだね」といって受け入れる。ここから始まれば、何事も良くなるのじゃないだろうか。
 「だけど」、や「でも」、ではなく、「そーだね」から始まればいいんだ。いいことを習ったな。

 夜になって、ようやく少し治まったようだ。明日は晴れ、「天気晴朗にして風弱し」、であってほしい。
 本当に取り留めのないメモだったね・・・「そだね」・・・
 


       
 2018年 1月

   1月22日(月)  アリさん ありがとう 

  アリさんとはモハメド・アリのことである。
  昨年末に、BSでの再放送を見て、メモしたいと思ったのだが、今日になってしまった。
 
117日が彼の誕生日なので、この日にメモしようと思っていたけれど、彼の業績はあまりにも多岐に亘り大きいので、ちょっとしたメモではメモしきれない。
 でも、何とかその痕跡だけでも残しておこうと思う。
 
 彼は僕より丁度1歳年上である。残念ながら、一昨年、201663日に亡くなった。
 自慢にはならないが、すでに僕の歳は彼を追い越した。
 
 
 
さて彼の足跡を超特急で辿ってみたい。 
 1960
年、ローマオリンピックのライトヘビー級で金メダルを獲得。
 
60年といえば、ベトナム戦争勃発といわれる年である。プロ転向後、1964年にはヘビー級世界チャンピオンになり、その後、数々の名勝負を演じ、3度チャンピオンを奪回し、19度の防衛に成功した。

 
 ボクシングで彼を知らない人はいないくらい有名になったが、彼を単なるチャンピオンよりも、より英雄にしたのは、彼の反戦活動である。
 
「俺はあいつらベトコンたちに何の恨みもない」 と言い、徴兵を拒否。彼は収監され、ベトナム戦争に躍起になっている最中の政府や国民、マスコミなどからも激しいバッシングを受ける。そして無敗のままタイトルを剥奪される。

 その後、彼のこのリング外での戦いは、何年も続く。1967年、徴兵を回避した罪で有罪判決を受け、ボクシング・ライセンスを剥奪される。
 全盛期の
25歳からの3年間余、彼はリングから遠ざけられる。「金持ちの息子は大学に行き、黒人や貧乏人の息子が戦争に行く。」と、彼は当時の実態とそのシステムを批判した。

 アリを擁護するにも身の危険を感じ、勇気の要ることだった。
 
 
最盛期の3年半余のブランク後、最終的には彼は無罪を勝ち取り、リングに復活する。王座剥奪後の1971、フレージャーと戦い、初めて敗北する。
 しかし、その
3年後、フレージャーを破って王者となり、最強のチャンピオンと云われたフォアマンを、八回KOで破り、王座に返り咲く。

 当時の下馬評は、圧倒的にフォアマン有利とされ、実際、試合は一方的にフォアマン有利で進行、打たれるままに為すすべのないアリの敗北を誰も疑わなかった。
 
しかし、アリは相手に打たせることで、体力を奪い、後半の8回、満を持した一発のカウンターパンチで仕留めてしまったのだ。
 
 この勝利は、試合会場の地名に因み、キンシャサの奇跡と呼ばれた。 
彼の反戦の戦いは黒人解放運動と共に、展望の開けないこの戦いの無意味さに気づいた多くのアメリカ人の共有するところとなり、ベトナム終戦への道を開いていく。 

 
今、思うと、僕らの青春は、当時は気づきもしなかったが、ベトナム戦争と共にあったような気がする。 
 
ベトナム戦争もまた、一言では片付かない、長いベトナムの惨憺たる歴史の上の一つの惨事だ。
 
 フランスに侵略され、日本にも犯され、アメリカに蹂躙される。そのような列強の勝手気ままな振る舞いに、国内の対立も激烈を極めた、悲しい民族の歴史だ。

  
欧米諸国はその後もカンボジア、中東などで同じ誤りを繰り返している。市井の人が戦争で得るものは何もない。自由や名誉、生命を奪われ、まるで猿かモルモットのように扱われる。猿やモルモットでも悲しいのに、これで利益を得る人たちは、全く意に介さない。

 心を失った、金の亡者・・・としか言いようがない。このような不毛な力の行使は、いつまで続くのだろう。

尻切れトンボになってしまったが、今日のところはこれまで・・・



    月7日(日)  遅ればせながら新年ご挨拶を

 4日の午後、突然ネットが繋がらなくなって、聞いていた音楽が切れてしまった。 配線を辿って、道路に出て、しばらく行くと10人以上の人が道路にたむろしている。
 「ネットが繋がらないんだけど、それと関係ありますか?」と聞くと、「ここで切れちゃったんだ・・・」。 ユニック(クレーン車)が、クレーンを下げすに走り、道路を横断している回線の束にひっかけ、切断してしまったらしい。

 結局、二日がかりで回復はしたが、その間、ネットも電話も切断状態。 新年のご挨拶でも・・・と思っていたのに、UPできなかった。 
 ぎっくり腰も年越ししてしまったが、こちらは順調に回復している。 5日始動予定の練習会は雨で流れたし、8日(月曜)は祝日なので、練習会は9日(火曜)が初日となる。 9日は多分、大丈夫だと思う。

 ところで、昨年の新年のご挨拶を見ると、以下のようにメモしている。 
  「明けまして どうぞ おめでたい年でありますように・・・

 休日にしたのですが、結局、クラブハウスに来ております。
 ベートーベンと干支の合うものがなく、
1時間くらい彷徨った末、
ようやく見つけたのがこれです。」といって、アヒルの載っている「メヌエット」のリンクなどを張っていた。 

 今年も休日にしていたけれど、結局、大晦日も元日もクラブを、というより「ココちゃん」を覗きに来た。
 少しトラブっていたので、心配だったのだ。けれど、元気に年を越してくれた。今は、すっかり懐いて、元気にしている。
 

 プレーヤーの方も大晦日は結構見えていたし、元日もゼロではなかった。年末年始を通じて、5日以外は好天に恵まれ、結構な賑わい、まずまずの年明け、ありがとうございました。

 また、余計なことを書きそうなので、お正月は素直にご挨拶だけにしておこうと思います。    新年おめでとうございます。     今年もよろしくお願いします。